なぜ努力できないのか?神経症の視点から考える

努力できない理由とその克服法

努力ができない人がいます。

最近では、努力できるかどうかも遺伝的な要因が絡んでいると言われていますが、それでも指一本動かせないわけではないし、単語一つも覚えられないということもないはずです。

小さな一歩を積み重ねていけば、少しは見晴らしのいい景色を拝むことができるかもしれません。

それでも、自分の能力を一切使わず、不満ばかりもらしている人もいます。

彼らはなぜ努力できないのでしょうか?

神経症者と努力

神経症者は、努力をしません。

なぜか?

それは自分が特別な人間であることを要求しているからです。

彼らは、災害に見舞われても自分だけは助かるとか、暴飲暴食しても健康であることを期待するなど、

自然の法則に反した不可能な要求をします。

虫がいいというのが神経症の特徴です。対価を払わずに報酬を求める。

いっさいの犠牲を払わずに結果だけを手に入れたいという考えです。

カレン・ホーナイの神経症的要求

カレン・ホーナイは、神経症的要求の特徴の一つとして「ふさわしい努力をしないでそれを求める」ことを挙げています。

例えば、誰かと電話で話したいと思えば、相手の方から自分にかけてくるべきだと考えます。

痩せたければ食事の量を減らせばいいという単純な法則にも反発する。

彼らはなんの努力もせずに特権的な地位を自分に与えられて然るべきだという権利主張を抱きます。

こうした権利主張は文化的背景のもとで正当化されることが多いのです。

神経症者の特徴

神経症者にはいくつかの特徴があります。

  • 現実の歪曲: 神経症者にとって現実とは、自分の悩みだけです。この世の中に自分の気持ちしかなくなり、周りの人の感情が見えなくなる。神経症者にとって、他者は存在せず、自分が心理的に楽になることだけが重要です。
  • 社会的役割の放棄: 神経症者は自分は社会的役割を果たそうとしませんが、逆に周りの人間が自分に対して役割を果たしてくれないという不満を常に持っています。
  • 他人の苦労に無関心: 神経症者は他人の恵まれた部分にばかり気を取られ、相手がどれだけ苦労をしているかが見えません。結果ばかりを見ていつも妬んでいます。
  • 世界に対する要求: 世界は自分に奉仕すべきだと思っています。それは、何より「自分に奉仕してくれる母親」が存在しなかったからです。幼少期の「母なるもの」への要求の挫折が受け入れられないのです。
  • 自己中心的な考え方: 神経症者は自己中心的で、相手との関係性を理解していません。他者に対してすぐに母親の役割を求め、悩みを相談すれば相手が解決してくれるのが当然と考えています。
  • 敵意の存在: 神経症者は身近な人に敵意を持っています。周りの人が自分のために愛の行動を起こすことを要求し、自分からは動こうとしません。問題解決のための行動を起こさず、自分を変える努力をしない自分を正当化します。

努力できない理由

努力できない人は、母なるものを求めています。

世界は自分に奉仕すべきと考えており、自分の問題を解決する責任は自分ではなく周囲にあると思っているのです。

努力するのは自分ではなく世界の方だと考えている。

親子関係が希薄な人は、幼児期の甘えの体験がないため、大人になっても満たされない心は幼児期の体験を求めています。

具体的な目標を持つ人は、現実を知っています。

自己実現する人は、目標があるから動くのです。具体的な目標を持たない人は、

非現実的な夢想に逃げ、努力しないで愚痴を言い、現実に不満を持ちます。

地道な努力を嫌い、すぐに注目を浴びたいと考えます。

そのため、待つことができず、今すぐに結果が欲しいと考えるのです。

解決策

問題は依存心と自己中心性にあります。

生きるとは、日々の生きる姿勢の積み重ねであり、一度にすべてを解決する方法はありません。

努力しない人は、自分が特別な人物であることを要求し、自分は努力せずに特別に安易な解決方法を求めています。

「周囲の人は自分の母親ではない」ということが理解できれば、愛情飢餓が満たされなくとも少しは冷静になれるでしょう。

幸福になるための第一歩は自覚であり、その先に努力があります。

周りが悪いと言っている間は先には進めません。

幸福になりたければ努力をするしかありません。

努力しないことの言い訳は「みんなが悪い」であり、幸せになりたければ自分の現状を誰のせいにもしないことが重要です。

幼少期の特別な時代は二度と訪れないことを認識し、その断念が必要です。

失われし楽園は永久に戻ってくることはなく、そのことに気づかなければ前に進むことはできません。

挫折を受け入れることが大切です。

まとめ

幼児期の失われた要求をかなえるために受身の姿勢を貫くのも、チヤホヤされたいのも、根っこは同じです。

満たされなかった幼少期の体験があります。

愛された人間は自然に努力できる人間になれますが、愛されなかった人間は過去に執着して前向きになれません。

それでも、泣き言を言っても一度きりの人生です。

失われた幼少期の楽園、何もせずとも周りが自分を満たしてくれる、チヤホヤしてくれる、注目してくれる環境を求めても、決して時間が戻るわけではありません。

失われたものは失われたのであり、それは二度と戻ることはありません。


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